インドネシア共和国
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国名:インドネシア共和国
   Republic of Indonesia

首都:ジャカルタ(Jakarta)
   (人口864万人:2003年推計)

面積:1,919,440 km2(日本の約5.09倍)
   インドネシアは約13,500の群島からなる。そのうち6,000の島に人が住んでいる。
   陸地の面積:1,826,440 km2

人口:2億1,294万1,810人(1998年推計)
   人口構成(1998年推計)

年齢 構成比 女性 男性
0〜14 歳 31% 3,236万1,486人 3,331万1,867人
15〜64 歳 65% 6,921万5,722人 6,921万4,362人
65 歳以上 4% 472万9,912人 374万4,314人

人口:約2.17億人(2004年政府推計)

気候:熱帯
 典型的な熱帯性気候です。4月から9月にかけては南西から吹いてくる季節風の影響で乾期となり、10月から3月までは北東からの季節風によって雨季となり、12月と1月は降雨量が最も多くなります。また、雨季と乾期の以降は緩やかです。
 平均気温は年間を通じて21℃〜33℃程度で、湿度は季節によって77〜90%の範囲内で変化します。しかし山岳地帯では気温も湿度もずっと下がるので注意して下さい。

人口増加率:1.49%(1998年推計)
出生率  :人口1,000人当たり23.1人(1998年推計)
死亡率  :人口1,000人当たり 8.22 人(1998年推計)
乳幼児死亡率(1歳以下):出生1,000人当たり59.23人(1998年推計)
平均寿命 :男性:60.28歳、女性:64.81歳(1998年推計)

民族構成:ジャワ人45%、スンダ人14%、Madurese 7.5%、coastal Malays 7.5%、その他26%(27種族に大別されている)

言語:インドネシア語(Bahasa Indonesia)
   インドネシア語が公用語です。これはマレー語に近い言語で、独立後、国語として定められました。欧州語を基本としたローマ字表記を採用しています。しかしインドネシア各地では今でもその地域の言語、例えばバタック語、スンダ語、ジャワ語、バリ語などが使われており、583種以上の言葉があります。英語も比較的よく通じます。

宗教:
 インドネシアは憲法で信仰の自由を認めており、これは国家五原則(パンチャシラ:PANCASILA)の第一原則に“全能の神への信仰”として明記されています。国民の約85%はイスラム教徒であり、5%がキリスト教徒、残りはヒンズー教・仏教などとなっています。国内のいたる所に、各宗教の教会や寺院が建てられています。
 イスラム教:87%、プロテスタント:6%、ローマンカトリック:3%、ヒンドゥ:2%、仏教:1%、その他:1%(1985年)

識字率(15歳以上):全人口:83.8%(男性:89.6%、女性:78%)(1995年推計)

労働力:6,700万人

職業(1995年推計):
 農業 :44%
 製造業:13%
 建設業:5%
 運輸および通信:4%
 その他:34%

独立:1945年8月17日(独立宣言:1949年11月27日、インドネシアはオランダから法的に独立国となった)

憲法:1945年8月。1949年の連邦憲法と1950年の臨時憲法によって廃止された。1959年7月5日復活した。

◎国旗
 1945年の独立時に制定された国旗。赤と白は13世紀末の発祥と言われる伝統的な国民色で、白色は潔白を、赤色は勇気を表わし、この2色の組み合わせで潔白の上に立つ勇気という意味をもつ。また、同時に赤と白は、太陽と月を表している。配色はモナコ国旗と同じだが、インドネシア国旗は縦横比が2:3である。

◎政治体制
 政体 :共和制
 議会 :(1)国会(DPR):定数550名
     (2)国民協議会(MPR):678名(国会議員550名と地方代表議員128名の計)
 元首 :スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領(2004年10月20日就任、任期5年)
 選挙権:17歳以上の国民すべてと、年齢に関わらず結婚している人。

◎内政
 立法府:一院制
 内閣は大統領の補佐機関で、大統領が国務大臣の任免権を有する。

 1998年3月10日、国民評議会(MPR)は、次期大統領にスハルト大統領を選出し、スハルト大統領の7選が決定した。
 1998年5月21日、スハルト(Gen. (Ret.) SOEHARTO:1968年3月27日〜1998年5月21日)は大統領を辞任し、ハビビ副大統領が大統領に就任した。
 1999年6月、新しい制度の下で総選挙実施。10月、国民協議会においてアブドゥルラフマン・ワヒッドが第4代大統領に選出。
 2001年7月、ワヒッドは国民協議会特別総会で解任され、同日、メガワティ副大統領が大統領に就任。
 2004年10月、初の大統領直接選挙の結果、ユドヨノ大統領就任。

◎外交基本方針
 ASEANと連帯、非同盟・積極自主外交。西側諸国との協力関係維持。(インドネシア支援国会合による援助体制の確立)

◎軍事力
(1)予算:12兆7,549億ルピア(2002年度)(国家予算に占める割合:3.71%)
(2)兵役:志願制・選抜徴兵制併用
(3)兵力:正規軍30.2万人(03/04年版ミリタリーバランス)
      陸軍23.0万名、海軍4.5万人、空軍2.7万人、その他予備役40.0万人

◎経済(単位:米ドル)
 主要産業:鉱業(石油、LNG、アルミ、錫)、農業(米、ゴム、パ−ム油)、工業(木材製品、セメント、肥料)
 GDP(名目、億ドル):1,641(01)、2,038(02)、2,433(03)、2,576(04)(インドネシア政府統計)
 一人当りGDP(名目、ドル):673(01)、930(02)、1,091(03)、1,165(04)(IMF)
 経済成長率(実質、%):3.8(01)、4.3(02)、4.5(03)、5.1(04)(インドネシア政府統計)
 物価上昇率(%):12.6(01)、10.0(02)、5.1(03)、6.4(04)(インドネシア政府統計)
 失業率:15%。完全雇用でない者50%(1998年推計)

◎総貿易額(百万ドル)(インドネシア政府統計)
2000年 2001年 2002年 2003年 2004年
輸出 62,124 56,321 57,159 61,058 71,585
輸入 33,515 30,962 31,289 32,551 46,525

◎主要貿易品目(2003年)(インドネシア政府統計)
(1)輸出 石油・ガス(25%)、輸送用機器・部品(17%)、繊維・衣類(12%)
(2)輸入 一般機器・輸送用機器(26%)、燃料・潤滑油(24%)、化学原料・製品(16%)

◎主要貿易相手国(2003年)(インドネシア政府統計)
(1)輸出 日本(21%)、米国(13%)、シンガポール(8%)
(2)輸入 日本(16%)、中国(12%)、シンガポール(11%)

◎経済概況
 1997年7月のアジア通貨危機後、政府はIMFとの合意に基づき、経済構造改革を断行。2004年末から2005年初めにかけて個人消費や輸出に支えられ経済は好調であったが、その後、石油燃料価格の値上げに端を発するインフレと高金利により成長率は鈍化傾向。

◎略史
 1890年、ユージン・デュボワ博士によって、最初のジャワ居住者と考えられているジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトス)の化石が発見されました。中部ジャワのトリニル村近くで発掘されたこの化石は50万年前のもので、その後も他の化石が発掘されています。

 紀元前3,000年から500年ころ、モンゴル系のマレー人が中国やベトナム辺りからインドネシアへ移住し始め、新石器・青銅器・鉄器などの新時代の文化やオーストロネシア地域(太平洋中南部の諸島)の言語を伝えました。

 紀元前1世紀にインドの貿易商たちが大挙してインドネシアにやってきたため、インド文明の影響を受けるようになりました。インド人はヒンドゥー教文化と仏教文化をもたらしました。

 やがて7世紀ころには、ヒンドゥー王国や仏教王国が栄え、壮大な建築物や寺院が数多く建立されました。ボロブドゥールやムンドットなどの素晴らしい遺跡が今も残されています。この時代にスマトラのスリウィジャヤ王国が栄え、東南アジアで最も強大な王国として600年間勢力を誇りました。

 13世紀ころ、更に強大なヒンドゥー王国マジャパイトが東ジャワで台頭し、その後200年間の間にインドネシア全域とマレー半島の一部を統合、支配しました。インドネシア史における黄金期であるこの時代の名残は、ジョグジャカルタ付近のプランバナン寺院群や東ジャワのペナタラン寺院・ディエン高原の遺跡群など、ジャワ島内のいたるところで見ることが出来ます。

 13世紀には、イスラム勢力の到来があり、モンゴルによる最初のインドネシア侵略もありました。13世紀後半には北スマトラの小イスラム国家が造られ、スマトラからジャワやマルク諸島まで、イスラム商人が島と島との取引で往来する間にイスラム教は広まっていきました。ヒンドゥー教や仏教は、イスラム教におされやがて衰退していきました。

 1292年にマルコ・ポーロがヨーロッパ人としてジャワに最初の足跡を印しましたが、本格的にヨーロッパ勢力が侵入してきたのは16世紀になってからでした。

 1511年、ポルトガルの第2代総督アフォンソ・ダルブケルケがマラッカからバンテンやドゥマクへ入り、当時のイスラム王朝諸国を支配しました。

 17世紀になると、オランダ人たちが進出してきてポルトガル人に代わり、インドネシア全域にわたる支配を始めました。

 1602年、オランダは連合オランダ東インド会社を設立して香料とコーヒーの輸出を独占し、1619年にジャワに総督を置いてインドネシアをオランダの植民地帝国としました。オランダはジャカルタをバタビアと改名しました。以後、第二次世界大戦が始まるまでオランダ支配が続いたのです。

 オランダ領東インド(スマトラ、ジャワ、スラウェシ、カリマンタン、マルク、ニューギニア)と総称されたこの地域は、1811年から1816年までの短期間、英国の支配下にありました。ジャワ及びその属領の英国副総督トマス・スタンフォード・ラッセル卿は、植民地政策下でのリベラルな姿勢とジャワ史に関する研究とで知られた人物です。

 英国支配から再びオランダ支配に戻った頃から、被植民地支配から抜け出そうとするインドネシアの独立運動が盛んになり、各地で反乱と鎮圧が繰り返され、次第に激化していきました。それは第二次世界大戦が始まり、オランダ軍が日本に敗れるまで続きました。

 1928年、スカルノらによりインドネシア国民党が結成され、公然と独立を呼びかけました。

 第二次世界大戦中の1942年、日本軍が諸島を占領しました。インドネシアは、当初、日本によって、独立が達成されることを期待していました。しかし日本の軍政は、オランダ統治時代より悲惨なものだったようです。強制労働によって多くの国民が死に、天然資源、食糧の搾取により農業生産は低下し、飢饉が襲い、餓死者が多数出ました。反乱も多発し、日本軍により鎮圧されました。

 日本の無条件降伏の2日後、1945年8月17日、スカルノはインドネシア独立を宣言しました。しかし、インドネシアの再植民地化を狙うオランダは武力で制圧しようとし、双方で戦闘が始まりました。インドネシア軍の抵抗と国際世論の非難により、オランダは植民地化をあきらめ、1949年12月、オランダのハーグにおける会議で、独立が合意されました。

 1950年8月、完全独立が達成され、スカルノが、大統領に就任しました。議会制民主主義の期間後、1957年、スカルノは議会を廃止し、戒厳令を宣し、政府による独裁主義的政治を始めました。スカルノは、それを指導民主主義と呼びました。

 スカルノの権力簒奪に対し、1958年、スマトラやスラウェシで反乱が起きました。しかし、スカルノによって鎮圧されてしまいました。スカルノは、国連から脱退し、経済の社会主義化を計画しました。

 1965年9月30日、軍部共産主義グループによるクーデターが起きました。これに対し、スハルト陸軍戦略予備隊司令官が、クーデターを鎮圧しました。これはインドネシアで「9・30事件」と呼ばれています。このクーデターの鎮圧によって、スハルトの実権が拡大しました。

 しかし、スカルノ大統領は、クーデターへの関与を疑われ、その権威が低下し、大統領職を剥奪されました。(1970年6月死去)

 1967年3月、スハルトはスカルノ大統領に代わり、大統領代行となりました。

 1968年、スハルトが大統領に就任しました。動乱のスカルノの時代と全く対照的に、インドネシアはスハルトの下で、西側諸国の投資や援助を求め、インドネシア経済を急速に成長させていきました。しかし、その一方で、1975年の東ティモールへの度重なる侵略と1976年の併合、1991年の東ティモールのディリでの虐殺、政権主流派の経済利権の独占、1994年6月の政府を批判した雑誌の発禁処分、などの問題があります。多くの東ティモール人とイリアンジャヤのパプア人が、インドネシア共和国への強制的な帰属を拒否し、インドネシアの占領に抵抗し続けています。